「深夜の声」
拓也(たくや)は古いアパートに引っ越してきた。家賃が安く、駅にも近い理想の物件だと喜んでいたが、引っ越してから数日後、夜中に奇妙な声が聞こえ始めた。壁越しに、かすかに聞こえる囁き声。それは、いつも深夜の2時頃になると現れる。
「…たすけて…」
最初は気のせいだと思い、無視していたが、毎晩のように続くその声に、次第に不安が募っていった。隣人がいるのかと思い、昼間に隣の部屋を訪ねてみたが、誰もいないようだった。管理人に尋ねると、隣の部屋は半年以上も空室だという。
「じゃあ、あの声は一体…」
気味悪さが増す中で、拓也はその声を録音し、友人に聞かせてみた。しかし、友人たちは「何も聞こえない」と首をかしげるばかり。拓也は自分の気のせいかもしれないと無理に思い込もうとしたが、次第に声ははっきりと彼の名前を呼ぶようになった。
「…拓也…聞こえているのか…」
明らかに何者かが彼に話しかけている。拓也は恐怖に駆られ、夜中に電気を消さずに眠るようになった。だが、声は日に日に強くなり、ある夜、ついに壁から直接囁きかけてくるように感じた。
「拓也…なぜ逃げるの…」
限界を迎えた拓也は、壁に向かって怒鳴り声をあげた。
「誰なんだ!何が目的だ!」
その瞬間、壁からコンコンとノック音が返ってきた。拓也は震えながら壁に耳を当てると、再び囁き声が聞こえた。
「…気づいてくれて、ありがとう…」
その瞬間、壁が突然崩れ落ち、薄暗い隙間が現れた。恐怖に駆られながらも、拓也は隙間を覗き込んだ。そこには、信じられない光景が広がっていた。
狭い空間の中に、見覚えのある人物が横たわっていた。それは、紛れもなく自分自身の姿だった。髪も服も、まるで鏡に映したようにそっくりな自分が、冷たくなった手で拓也を指さしていた。
「…僕はここでずっと待っていたんだ…」
拓也は混乱し、後ずさりしたが、足元で何かがつまずく音がした。下を見下ろすと、そこには古びた日記が転がっていた。ページをめくると、最後の一行にこう書かれていた。
「私の名前は、拓也。あの日、壁の向こうに閉じ込められて、今も助けを待っている。」
その瞬間、彼の記憶に断片的な映像が流れ込んだ。そうだ、自分はここで何かを探していて、何かに引きずり込まれたのだ。そして、今見ている自分は、「外に出たかった影」に過ぎない。
「外にいるのは…誰なんだ?」
混乱しながら壁の隙間を見つめると、向こう側にいる「拓也」が笑いながら手を差し伸べていた。
「さあ、交代だよ…」
その瞬間、彼の意識が暗転し、次に目を開けた時には、狭くて冷たい壁の中だった。壁の外では、「自分」にそっくりな何者かが部屋を歩き回っているのが見えた。
彼は必死に壁を叩き、叫んだ。しかし、その声は誰にも届かず、アパートにはただ静寂が広がっていた。