「深夜の訪問者」
その日、健一（けんいち）は安い賃貸アパートに引っ越してきた。家賃が安い割には部屋も広く、彼は新生活に胸を躍らせていた。だが、引っ越してから数日後、深夜に奇妙なノック音が聞こえるようになった。
「こんな時間に、隣の住人が何をしてるんだ？」
気にはなったが、遅い時間にいちいち文句を言うのも面倒だと思い、健一は音を無視して寝ることにした。しかし、その音は毎晩のように続いた。決まって夜中の3時、コンコンと軽くドアを叩くような音が聞こえてくるのだ。
ある夜、音の原因が気になった健一は、思い切って隣の部屋を訪ねてみることにした。ノックしても反応はなく、ふと管理人から渡された「隣室の住人は数ヶ月前に退去している」という言葉を思い出した。
「じゃあ、今聞こえている音は一体…？」
嫌な予感が胸をよぎり、彼はその晩から部屋の鍵をかけ、音を聞こえないふりをして過ごすようにした。だが、音は日に日に大きくなり、ついには自分の部屋のドアを叩くようになった。
ある夜、ノック音があまりにもしつこくなり、健一はついに耐えきれずドアを開けた。だが、廊下には誰もいない。彼は恐怖と苛立ちから、思い切って叫び声をあげた。
「誰だ！こんな時間に何してるんだ！」
その瞬間、背後から耳元で囁くような声が聞こえた。
「ここだよ…ずっと、ここにいるよ…」
振り返ると、そこには鏡があり、健一の顔が映っていた。しかし、その鏡の中の自分の顔が、あり得ないほどに歪んでいた。彼の表情はまるで、必死に何かを伝えようとするかのように見えた。
「なんだこれは…」健一はパニックになり、鏡を叩き割った。
だが、割れた鏡の破片から覗く彼自身の顔は、なおも彼を見つめていた。そして、突然、割れた破片の一つが彼の手を握り返し、冷たい感触が全身に広がった。
その瞬間、健一の視界は一瞬で暗転した。次に目を覚ますと、彼は狭くて暗い場所にいた。周囲を見渡すと、そこは自分が先ほど叩き割ったはずの鏡の中だった。
「まさか…俺が、ここに閉じ込められて…？」
外側の世界では、健一の姿をした何者かが彼の部屋を歩き回っていた。そいつは健一そっくりの顔でにやりと笑い、今度は健一の代わりにドアを叩き始めた。
「今度は、お前が中だ」
健一は鏡の中から必死に叫んだが、外の世界には届かなかった。彼は自分が今、誰もいないとされていた隣室の「住人」になってしまったのだと理解した。外では彼の姿をした「偽物」が、次の犠牲者を探して夜中にドアを叩き続けていた。
